患っている中にも怪我している中にも、活溌に働いているその体を見ないで、その体のはたらきである痛いとか、熱がでるとかいうことを敵のように思って気張って、苦しんでいる人を見ると、もう少し素直に人間の生を、体のはたらきを齎らすものと見られないのだろうかと思う。
人間の体は絶えずどこかが毀れている、そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区別はつけられない。
異常を除いて正常であろうと考えている養生人は多いが、問題は異常ではない。問題は異常の中に正常を保っている体のはたらきである。それがどのように働いているのか、
それを確かめることに養生の道がある。
問題は、体ではなく心である。人を責め、追求し、他人の過ちのために自分の労力を消費するが如きのことをなさず、自分を楽しくし他人を快くすることの空想を、いつも心の中に拡げて生きることが養生というものである。
晴れあり、曇りあり。病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。私は健康も疫病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。
安座長眠、他人の世話になって、十年二十年、他人より長時間息していたって生きていると言われない。長く息していただけのことで、長寿必ずしも全生ではない。長寿が悪いと言うのではない。
溌剌と元気にその生を十全に発揮し、どんな瞬間も生き生き暮らしてこそ全生と言える。これなら長寿程良い。
この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも楽々悠々息しつづけよう。そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹きすぎる。
愉快に生涯を生きぬくことが全生である。ジメジメして息していては全生はできない。健康に生きる為に、愉快ほど大切なものはない。僅かな利害や面子の為、その大切な愉快を失って生きている人は不幸せである。
自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。
息を深くし、気を背骨に通して、"ウーム大丈夫"の心持たば、人は生する道を自ずと歩む也。何かに求め、助けられるを希い、わらをつかんでいるうちは、泳ぐことできぬ也。一切を捨て去って、自分の裡の力が発揮される也。
いつも希望を持って楽しく生きること。どんな苦しみも避けないで迎えうつこと。余分に苦しまないこと。不幸や苦しみを知らないこと。それ故養生の人は不幸や苦しみを見ません。こうして楽々悠々生きておりますと、自ずからその息が深く調って乱れないのであります。
必要な力がわいて活動しつづけるのが生命というものである。今ある形の持つちからしか出せないように思い込んでいるのは、自ら生くるちからを軽視しているというものである。元気を出して、自分の裡から新しい力を呼び起こそうではないか。
豊かな心とは、無い時は無いように生きることを楽しみ、有る時は有るように楽しんで、それにこだわらず、いつも生々溌剌とした気分で一日を暮らせることだ。無くて困り、有って困って、持たない為に陰気になり、持って、その番をして気が苛立つ人は、どうしても豊かとはいえない。
あらゆる財物を失って豊かな人は 豊かということを自分のものにしている何もなくとも、豊かな心に生きている人だけが豊かなのだそういう人は 失っても直ちに得るし 得たものにしがみつかない得たものにしがみつくのは 失うのを恐れているからだ 貧しき人の為すことだ
他人の幸せを羨んでいるうちはその人は幸せではない。他人の幸せを喜ぶようになると、その人も幸せになる。世界の幸いを自分の幸いと感ぜられるようになって、人間が世界と一つの息に生きていることになる。
三人の幸せを喜ぶものより百人の幸せを喜べる人は大きい。しかし世界の全部の人の幸せを、自分の幸せと感ずることのできる人は、どんなところにいる一人の不幸せな人にも胸を痛めるものだ
いつも希望を持って楽しく生きること。どんな苦しみも避けないで迎えうつこと。余分に苦しまないこと。不幸や苦しみを知らないこと。それ故養生の人は不幸や苦しみを見ません。こうして楽々悠々生きておりますと、自ずからその息が深く調って乱れないのであります。
自分のための逃げ道を、一切自分で閉ざしてしまうことだけが、弱い人を強くする。そして自分で自分に言訳するような、自分に対する見栄をかなぐり捨て、裡の力で行動すれば、その一挙手一投足は逞しい人間を造ってゆく。
失敗を恐れて用心を重ねるだけで、何事もすらすら為し得ない人があるが、これは失敗の意義を知らないからである。失敗というものは、失敗してもこれにくさらないで、元気良く失敗で得た経験を活かして、次の新しい道へふみ出そうとする人にとっては成功への一つの段階に過ぎない。
頭の工夫だけで生きている人は ところどころで とまどいする。そして とまどいしている間に 機は逃げてゆく 機に敏な人も 頭でつかまっている限り しくじることがある。 心で感じている人も 感じたまま動けない限り 機は去ってゆく
たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。
記憶とか 正確とか 形式とか 過去に頭を向けていることは それ故に老衰行為だ
生くるとは創造することであり それ故新しいことを考え行なうことが無くなると 人は老いる産む力を失ったことを老衰という
生きることの価値は生きることそのものだ 生きることの目的は生きることそのものだ 今生きている その生きつつあることそのものが 生きている意義の全部だ 生きる為のいろいろの目的は所詮人間が造った
人間の価値は、その自発的行動にある。教育の目標は、自発性を養うことにある。自発の行為だけが、人間の自然の動きである。
気を集めると体のはたらきが活溌になってき、元気が出てくるが、気が抜けるとやることもやれなくなってしまう。やらなくてはならないと思い乍らやれないのは、気がない場合だ。やる気があれば、自ずから力も出てくる。こうして、気は人間の体を動かし、人間の集まりである社会をも動かしてゆく。
自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。しかし、なげやりにして抛っておくことは自然ではない。自然は整然として動いている。その秩序がそのまま、素直に現われるよう生き、動くことが自然なのである。自然に死ぬのは自然に生きききった者だけである。
多くの人は山の自然、海の自然を自然のつもりになっている。しかし人間の自然は自分の体の構造に従って、全力を尽して生くることである。
宇宙 それは空間でも時間でもない それはあなたの意識そのもの あなたの想いが及ぶ範囲である あなたの意識に合せて宇宙は姿を変える 世界が変わったのではない。自分が変わったのである。自分が変われば世界は変わる。自分の世界の中心はあく迄も自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。
乳児は自然の生物である。生くる為に必要な智恵と構造を有して、必要なことを要求し、余分なことは不快とする。それ故、乳児の欲求にそって、大人の経験を活かす可きである。押しつけてはいけないことを改めて痛感する。
人間の生の始めにはまず好奇心がある。生の活溌な時はすべての事物へ、又その動きに好奇心が働く。生が萎縮すると好奇心は失せる。好奇心こそ独創の出発点。子供達の好奇心を奪うまい。独創への道を閉ざさぬことは大人の嗜みといえる。好奇心は新鮮な生へ人を導く。
大人の知識は、子供の好奇心を喚びおこすのに使う可きで、余分の手助けに使う可きではない。
大人は大人の世界に子供を連れ込む前に、子供の世界に入って、天心に息してその裡なる天心を呼び起こさねばならぬ。天心を保て、天心に生きよ、大人も子供も、みんな一緒に。